籐野リタ
ジャンル:小説
場所:上七軒
Kamishichiken
歌舞(かぶ)練場(れんじょう)の坂を上る途中で、千里(ちさと)はちょっとの間(ま)、空のかなたを見上げた。ふっとため息がもれて、立ちこぎのまま、前掛けの間を風が通り過ぎていくのを心地よく味わった。北野(きたの)天満宮(さん)の杜のかたなには、入道雲がもくもくと湧きあがっていた。
――もう、夏なんだなぁ――
三差路に出ると前かがみの姿勢で、慎重にペダルをこいだ。右に行くと小学校で、さらにその向こうが平野神社。左に折れると千本(せんぼん)釈迦堂(しゃかどう)で、千里はどちらにもいかないで、ななめに伸びた小路へと折れていく。
――夏だからって、どうってことないけどーー。
前掛けの “棚橋寿三郎日本酒店“ の文字はすでにはげかかっていて、この戦前仕様のラビット号は、フレームもチェーンもハンドルだってさびさびの代物だけれど、千里の頼もしい相棒にはかわりない。どこに行くのもいっしょで、この西陣・北野かいわいでは、棚橋酒店と言うと、ラビット号で配達に来るお兄ちゃん、という人もあるくらいだ。祖父の代からのもので、やがて祖父から父に受け継がれ、再び祖父へと戻って、三年前に祖父が亡くなったのと同時に、千里がゆずりうけた。父を早くに亡くし、祖父が亡くなったのとほぼ同時に、ドュッセルドルフに家族で転勤が決まった兄は、当分、京都には戻れないだろうと言った。高校を中退したあと、長らく無職の身の上だった千里。店を継いだのは、自然な成り行きみたいなものだった。
その日は午後一番に、上七軒の“花籠”に日本酒とビール一ダースを届けるよう言われていた。花街は昼間、表戸を閉めていて、御用聞きの人間は、必ずお勝手から入るようになっている。店の裏口は通路が狭く、自転車ごと中に入ることができない。だから千里はいつも、お勝手に続く裏木戸の前に自転車を停め、よっこらせっと重いケースを担いでいかなければならない。通路は人一人通れるのがやっとで、まっすぐの姿勢では不可能だ。下駄の鼻緒が裸足の指にくいこむくらいにつま先立ち、下腹部にひたすら力をこめ、身体を心持ち斜めにしながら進んでいく。玄関口に辿りつく頃には、だからいつも汗だくになっている。
「よう、おきばりやすなぁ」
奥から出てきた和服姿の女将さんが出迎えてくれる。母よりずいぶん年上に見えるけれど、とても艶っぽい。薄化粧に品があって、ぷっくりしたまぶたの下のまなざしがやけに優しい。
「すごい汗、ちょっと待ってなさい」
戻ってきた女将さんの手には、冷やし飴の缶が握られていた。
「すんません、いただきます」
缶はよく冷えていて、熱を持った手のひらに心地いい冷たさだった。千里は、その場でごくごく飲んだ。
「缶は、ほかし(・・・)といたげる」
手を伸ばし、空き缶も引き受けた。
「おおきに、すんません」
千里は、帽子をとるとちょこんと頭を下げ、そのままくるりときびすを返した。黒い格子戸とよしず。提灯に灯りがともるまでの花街は、眠っているように静かだ。ひさしの下の日蔭のところに、猫がいっぴき寝そべっている。ころころしたミルクコーヒー色で、その寝姿に思わず目を細めながら、千里はそろそろとラビット号のスタンドに足をかけた。荷台に日本酒の一升びんと、洋酒が三本くくりつけてあって、これがけっこう重い。ハンドルを握る手に思いきり力をこめ、せーの、という感じでスタンドを後ろに蹴りあげる。一気にサドルにまたがると、抜け道の小路を軽快に走りぬけて行った。通りに出るところで少しスピードを落とす。馴れたもので、かえって気が緩んだのかもしれない。自転車は右に回ったところで、斜めに傾ぐようにして通りに飛び出して行った。さっと目の前に黒いものがよぎった気がした。あわててブレーキをかけたけれど、間に合わなかった。
”ガシャ、シャーン“
荷台にくくりつけてあった酒瓶が道ばたに吹っ飛び、同時に小さな悲鳴が上がった。とっさに後ろを振り返ると、スミレ色の液体が、ぷつぷつと泡沫を浮かべて路肩に流れ出していた。そのかたわらで、スーツ姿の髪の長い女性がぼんやり立ち尽くしていた。千里は飛び散ったガラス片を踏まないように気をつけながら、はあはあと肩で息をつきながら、近づいて行った。
「すんません」
深々と頭を下げてあやまる。
「怪我、ありませんでした?」
大きなショルダーバッグを抱えたその女(ひと)は、取り出したハンカチでスーツの裾を拭っていた。千里よりずい分と背が高い。キリンのように長い身体を折り曲げていた彼女が、気配に気づいてこちらを振り返る。目と目が合って、なんだかぶるっとする。導火線が、かちっと音をたてて点火する感じ。火はまたたくまに千里の全身を駆けぬけていた。
「どうも、すんません」
それから、もう一度、照れ隠しのように頭を下げた。情けないことに頭をあげるタイミングがわからず、そのままの姿勢を保っていた。一分もそうしていただろうか。頭の上で何かが割れるような音がして、それが笑い声だと気づくまでは、それでも時間がかかった。はっとして顔を上げると、かがみ込むように、ハンドルの下のウサギの頭をなでている。
「ラビット号か。可愛い名前ね」
夢みたいななりゆきだった。彼女はみずから宇佐美アカネと名乗ると、自分は東京のコンサルティング会社に勤務しているのだけれど、上司から、京都の老舗店についてのレポート作成を命じられていて、棚橋酒店を見学させてもらえないだろうか、なんて言ったのだ。カエルの置物のある薬局店の角を曲がると、平屋の家並みが続き、路地の中ほどに“棚橋寿三郎酒店”のにじんだ墨文字の看板は見えてくる。店番をしていた母は、自転車を押しおし、女連れで戻ってきた千里をちらといちべつしただけだったけれど、事情を知ると、眼鏡がすり落ちるような勢いで飛び出してきて、彼女に深々と頭を下げた。
「申し訳、ありませんでした」
「いいえ。前をよくみていなかったわたしが、悪いんです」
母は眼鏡の中から上目づかいにその顔を眩しそうに見上げ、彼女が店の中を見て回っている間、上機嫌で棚橋酒店の歴史を語っていた。それから“静香”に出向いたなりゆきも、嘘みたいだった。彼女が帰りがけにふとたずねたのを、店の女主人と友達の母が、“千里、案内してあげたら”なんて言い出したのだ。外国の煙草屋みたいなタイル張りの丸くつきだした外観も、古い二等列車みたいなボックス席の感じもまるで変わってなかった。中学生にきた時以来で、千里はなんだか吹き出しそうになる。
「あの時、この店を探していたのよ」
宇佐美アカネは、ミルクティーのスプーンをカップの中で軽くもてあそぶようにしながら、話し始めた。千里は、静香がニューヨークタイムズに掲載された時の話を聞かされて、思わず身体をのけぞらせた。
「そんなこと、ぜんぜん、知らんかった」
「君、ほんとに京都の人」
「どうして? 」
「京都の人って、おしゃべりで噂好きって聞いてたから」
「僕は、そうじゃない?」
「うん、ぜんぜん、違う」
「それって、褒め言葉?」
「もちろんよ」
彼女は髪の毛をかき上げながらころころと笑い、ふと珍しいものでも見つけたように、
「あら、この店にはテレビがあるのね」
通路の先の古いビクターの蓄音機。その上にはテレビが乗っけてあって、低くニュースが流れていた。
「昔からこんな感じ。少しも変わってないの。じっさいこの店。七十年以上、一度も改装とかしてないんだよ」
千里はちょっと声をひそめてみせた。
「でも、変わらないって、いいことじゃない」
彼女は真面目な顔で言う。その表情になんだか気圧されそうになる。美人というのは、真剣な話をする時は、ちょっと恐い顔になるんだな、というのを千里は初めて知ったのだった。
「でも、来てよかった。お店も見学させてもらったし、いろいろ勉強にもなったわ」
「――」
「レポート、いいもの書けそう。千里君のおかげね」
「僕はなんにもしてないよ」
千里は思わず東京言葉で返した。
「大切なことを教えてくれたじゃない。お辞儀をする時は、お母さんも君も、必ず深々と頭を下げるの。ちょっと新鮮だった」
やがて店を出る段になって、前をさっそうと歩きだしていた宇佐美アカネは、思いついたように振り返った。
「よかったら、今夜、いっしょにお酒でも飲まない」
夜、千里は、ビデオを返しに行くと嘘を言って家を出た。それから国産ワインも一本拝借した。これは帰りがけ、彼女にプレゼントするつもりだった。ホテルのバーは、さぞかし高級だろうから、せめてものお礼のつもりだった。それを荷台にくくりつけ、繁華街にほど近い約束のホテルへと自転車を走らせた。ラビット号は思いのほか快調に走り、おかげで時間までにどうにか到着できた。それでも回転ドアをくぐったとたんは、ちょっと度肝を抜かれた。太い柱が何本もそそりたつロビーのながめは、古代のローマの神殿にでも迷いこんだようだった。さすがに下駄からスニーカーに履き替えてきたけれど、ふかふかのじゅうたんは、なんとも歩きにくくて、何度もつんのめりながら、千里はうす暗いロビーをひととおりみて回り、彼女の姿がどこにも見当たらないことに失望して、うなだれてそばのソファーへと腰を落ち着けた。ふと思い直したようになったのは、別れぎわの彼女の言葉を思い出したからだった。
“今からホテルに帰って、食事をするけれど、食後のあと、いつもの癖でひと眠りすることがあるかもしれないから、そんな時はドアをたたいてみて”
千里はエレベーターのチンと小気味のいい音を合図のように、わき目もふらず箱に飛び乗った。階のボタンを押す手が震えているのがわかった。彼は透明のエレベーターの窓から、夜の街が花火のようにきれいなのに気づいた。御池通りの噴水。青い照明が絵の具のようににじみ、焦燥をかきたてる。遠くで京都タワーが、チカチカとウサギの目みたいに赤くまたたいて、そのたびに胸がドキドキとなった。十三階でエレベーターが開くと、心臓はもう喉から飛び出しそうだった。廊下を歩いている間は、何度もよろめいて、まるで砂の中を歩いているみたいだった。1310、1309、1308。あともう少し、というところで、彼は今一度息を整えた。そしてとうとうその番号が見えてきたところで、急停止した。最後にもう一度番号を確かめ、ゆっくりと部屋の前まで近づいて行き、意外なことを発見する。ドアが半ば開いていたのだ。ロック式なのにおかしいな、とのぞきこむと、彼女のハイヒールの片方が、ついたてのように扉にひっかかっているのだとわかった。部屋を出ようとしたところで、不測の事態に遭遇し、あわてて駆けもどったというところだろうか。
針みたいに鋭い声が響いてくる。ドアの手前に千里は、思わずあとずさりする。
“ひどい言い方。あたしをいったい、なんだと思ってるのよ”
彼女が泣いているのだとわかると、千里は反射的に新聞紙で包んできた小樽産のワインを、ドアに立てかけて置いた。それから未練な気持ちを振り払うように、どたどたと大きな音をたてて雲みたいにふわふわの廊下を駆けて行った。
翌日も晴天だった。千里は祖父の亡くなった日のことをふと思い出し、それからいつものことばを口笛まじりにつぶやいた。
――どうってことない。うん、どうってことないやねーー。
店の外に出るとゆっくりと背伸びをし、注文のメモがポケットに収まっているかどうか確かめてから、母が準備しておいてくれた酒瓶の積みこまれた自転車のハンドルに手をかけた。
「ラビット号、くん」
声がして振り向いたとたん、夢を見ているのではないかと思う。夢を見ているのではない証拠に、握りしめた手のひらに、ハンドルの錆びた鉄の棒が、軽いうずきを伝えてよこした。アカネが駆けてくる。肩で息をついている。
「昨日はどうしたの?ずっと待ってたのよ」
胸のドキドキはマックスに達していたけれど、千里はわざと素っ気なく言う。
「配達に行かなきゃ」
「ストップ」
とつじょ行く手をふさがれてしまう。前に回った彼女が、ハンドルを押さえこんでいて、その力が想像以上にものすごかったのだ。
「配達は、今日一日、わたしの仕事」
「ええっ」
見上げた先に、彼女の顔があった。にこにこしている。
「頭の固い上司から、レポートをダメ出しされたの。悔しいから、現場で働いて書きなおそうと思って。千里君、悪いけど協力してくれない?」
最近のコメント